現在、12月23日は、今上天皇の生誕を祝う「天皇誕生日」という祝日です。しかし天皇誕生日がいつからあるのかなど詳しいことを知らないので調べてみました。
国民の休日
「国民の休日」は、1948年に公布・施行された「国民の祝日に関する法律(祝日法)」で定められた休日で、16日あります。ハッピーマンデー制度という非常に馬鹿げたルールで日にちが変更されているので、忘れないために「本来の日にち」を含めて記載しておきます。
- 1月1日 元日
- 1月第2月曜日 成人の日。元は1月15日
- 2月11日 建国記念の日
- 2月23日 天皇誕生日
- 3月春分日 春分の日(年によって日にちは変わる)
- 4月29日 昭和の日 元々は昭和天皇の誕生日
- 5月3日 憲法記念日
- 5月4日 みどりの日
- 5月5日 こどもの日
- 7月 第3月曜日 うみの日
- 8月11日 山の日
- 9月第3月曜日 敬老の日
- 9月秋分日 秋分の日(年によって日にちは変わる)
- 10月第2月曜日 体育の日 元は10月10日
- 11月3日 文化の日 元は明治天皇の誕生日。「明治の日」であるべき日。
- 11月23日は「新嘗祭」を祝おう|収穫を感謝し来年の豊作を祈る日
*個別記事のあるものはリンクになっています。
天皇誕生日はいつからあるのか?
昭和生まれの私なので、物心がついた頃には既に「天皇誕生日」があり、4月29日(昭和天皇の誕生日、現昭和の日)はお休みでした。なので子供心に「天皇陛下の誕生日が一杯になればお休みが一杯になるのになー」とその意味を深く考えずに願ったものです。
しかし2600年以上も続いている皇統です。子供の妄想通りもっと一杯祝日があっても不思議ではないはず。というわけで調べました。
天皇誕生日
国民の祝日の一つ。1948年「国民の祝日に関する法律」(昭和23年法律178号)により他の祝日とともに制定。天皇の誕生日を祝うことを目的とするもので、現在は12月23日。光仁天皇在位の宝亀6(775)年天皇の誕生日を天長節と称したのが始り。天長節が行事として復活したのは明治1(1868)年からで、大正以後第2次世界大戦の終戦までは四大節の一つであった。
ブリタニカ国際大百科事典より
天皇の誕生日を祝うことはなんと宝亀6(775)年から行われていました。途中中断していたものの復活し、休日とされたのは、「国民の休日」として定められた1948年以降でした。
四大節(しだいせつ)
「四大節」という言葉が出てきたので簡単な説明をしておきます。
「四大節」とは明治天皇が山県有朋(やまがたありとも)内閣総理大臣と芳川顕正(よしかわあきまさ)文部大臣に与えた「教育勅語」いわゆる天皇陛下のおことばに定められていた祝祭日で、「紀元節(2月11日)」「天長節(天皇誕生日)」「明治節(明治天皇誕生日)」「四方節(元日/1月1日)」の4つが該当します。
大正天皇誕生日が無い
明治天皇の誕生日11月3日は「明治説」となり、現在は「文化の日」となりました。昭和天皇の誕生日4月29日は「みどりの日」となり、現在は「昭和の日」となりました。では大正天皇の誕生日はどこへ行ってしまったのでしょうか。
誕生日は8月31日
大正天皇は明治12年(1879年)8月31日に生まれ、昭和2年(1927年)に崩御されました。宝算(天皇の年齢)は47歳です。
明治天皇の宝算が61歳、昭和天皇の宝算は87歳ですから、短命であったことが伺えます。
大正時代は昭和天皇の摂政の時代
大正天皇は生まれながらにして病弱だったようで、明治天皇の崩御を受けて即位しますが、度々体調を崩されて公務を休まれてました。そのため、昭和天皇が皇太子でありながら摂政となっていました。
白粉由来の水銀、鉛中毒説
明治天皇には9人の皇子女が居ました。しかし大正天皇以外は夭逝(ようせい|若くして亡くなるの意)しています。
9人中8人が若くしてこの世を去っていたとは驚きです。しかしその原因には白粉由来の水銀、鉛中毒だったのではないかと言われています。
脳病の原因
明治天皇は1887年までに9人の皇子女をもうけたが、大正天皇を除いてみな夭折し、誕生後直ちに死んだ2件以外の初発の病名は全て慢性脳膜炎であった[24]。大正天皇自身も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだ[24]。また、1888年・1889年の『華族統計書』によると、公家華族や武家華族の3歳未満児の死因で最も多いのは脳膜炎で、31件中12件を占めていた[24]。
この点について、1923年、京都帝国大学小児科教授の平井毓太郎が脳膜炎様病症は慢性鉛中毒症であるとの研究成果を発表した[24]。禁裡院中の女子は、鉛あるいは水銀を原料とする白粉を用いたから、皇子女の脳膜炎様病症は、白粉から母親の体内に入った鉛毒・水銀毒の結果であると推定された[24]。平井の発表に先立つ1907年の段階ですでに含鉛白粉の害は上流階級や有識階級の間で周知の情報となっていたとされている[24]。
wikipediaより
大正天皇 - Wikipedia
時代劇などでも、歌舞伎役者が白粉や紅に含まれていた鉛や水銀などが原因の病で死ぬというものを見た事がありますから、この研究結果は正しいのだろうなと思えます。
それにしても大正天皇が鉛や水銀の毒の影響のせいで病弱だったという話は非常に残念です。天皇の位にある方でさえ、病に倒れたり、苦しむのですね。医学の進歩は大切です。
大正天皇誕生日は年に2回あった
昭和天皇が摂政となり、実務を行っていたとは言え、大正天皇の御代です。天皇誕生日は祝っていなかったのか調べてみるとwikipediaに記載があったので参考にします。
大正天皇の誕生日は8月31日とまだ酷暑極まる最中です。明治天皇の崩御後の大正2年に天長節の式典を行われたものの、大正天皇は真っすぐに立っていることもできないほどだったそうで、時期をずらし、10月31日に大正天皇誕生祭を行っていたそうです。(2ヶ月ずらしたのは、翌月の9月が小の月で30日のため)
1913年(大正2年)8月31日に天長節が行われたが、盛暑期に天長節の式典を斎行するのが困難との理由で、1914年(大正3年)からは2か月遅れの10月31日に天長節の式典を斎行するようになった。なお、月遅れでは9月に31日が存在しないため2か月遅れとなっている。休日としては、8月31日が天長節、10月31日が天長節祝日という名称となり、天皇誕生日に関する休日が大正期は年2回となっていた。
wikipedia:大正天皇より
大正天皇 - Wikipedia
時期をずらす特例で、大正期には8月31日と10月31日の2回が祝日となっていました。この頃もし私が小学生だったなら、単純に喜んでいた気がします。
祝日でない明確な理由は不明
年に2回も大正天皇の生誕を祝う日があったにも関わらず、現在、「大正の日」となって祝日になっていません。その理由は色々調べてみましたがどうも確固たる話を見つけられませんでした。
あくまでも推測ですが、大正天皇が病弱で実務を行えず、実質裕仁皇太子殿下(のちの昭和天皇)が摂政として日本の元首だったことから、国民の側から「大正の日」として残そうという動きが無かったからではないでしょうか。
今からでも大正の世を偲ぶ日を儲けてもいいのではないかと思います。
12月23日を祝えるのは来年が最後
今上天皇は平成31年(2019年)に退位される意向を示されており、その通りになった場合は来年の平成30年の12月23日が祝日であるのが最後になります。
今上天皇が退位された場合、その年の天皇誕生日は現皇太子殿下である徳仁親王の誕生日2月23日になりますが、徳仁親王が即位前のため、平成31年には天皇誕生日の祝日はありません。
天皇誕生日には、皇居において一般参賀が行われます。今上天皇のお祝いをしたい方は来年が最後の機会となりますから、関東やお近くにお住まいの方は皇居に行かれるのも良いでしょう。
令和のはじまり
現在の上皇陛下が譲位されたために「平成」の世は終わり、徳仁皇太子殿下が今上陛下になって「令和」の世になりました。以降の天皇誕生日は、2月23日になりました。
最後にひとこと
天皇の生誕した日を祝える天皇誕生日は日本独自の祝日です。天皇の歴史は日本の歴史。その長さと重みについて振り返り、お祝いしたいですね。